- 高校交換留学に興味がある人
- アメリカに興味がある人
- 「東大生は完璧すぎる」という偏見を持っている人
- 東大推薦入試について知りたい人
- 異文化交流に興味がある人
- メンタルヘルス(心の健康)について考えたい・ている人
- 休学検討中の人
- 挫折した経験がある人
- 就活前・中の人
こんにちは、Ayakaです。
タイトルだけ見て、「なんだこの人すごそう!自分とは住む世界が違うじゃん!」と思った方、安心してください。
今回インタビューに応じてくれた(2020年9月現在)東大生S氏は、皆さんが思うほど、そこまですごい人物ではありません。
ただの、運が最強な男です(笑)
そんなSについて、インタビューを読んでいただく前に、簡単に紹介をしておきましょう。
(ちなみに、Sと私は高校の同級生です。)
Sは高校交換留学で、1年間アメリカで生活しましたが、卒業を遅らせることなく、天下の東大様に見事合格しました。
ただ、東大に入学したのも、“普通の”試験ではなく、Sが受験する年から始まった推薦入試で「面白いやつ」と思ってもらえたからで、
Sいわく、入学時の学力はとても東大生と名乗ることのできるものではなかったとのこと。
(これについては、インタビュー内で、もっと詳しく教えてくれたので、是非読み進めてください。)
そんな理由もあってか、入学できたはいいものの、Sはここで人生初めての挫折を味わうことになります。
幼いころから優等生、アメリカ交換留学も経験し、日本一の頭脳が集まる東大へ見事合格したという一見完璧すぎる経歴を持ったSに、一体何があったのでしょうか。
最後まで読んでみて、是非「東大生も人間だ」という当たり前のことに気づいていただけたら、Sも私も嬉しいです。
ノリのいい父に背中を押されアメリカへ
―アメリカを選んだ一番の目的は英語力を伸ばすことだった?
「英語喋れるようになったらかっこいいな~」っていうシンプルな動機でアメリカを選んだ。
―よく、親に反対される人がいるけど、Sの家でそういったことはなかった?
全く。むしろ大賛成くらいだった。
(高校交換留学など異文化学習の様々なプログラムを運営する)AFSのポスターを見た日に、いつもなら同じ時間にはならないけど、たまたま親と夜ご飯を一緒に食べたんだよね。
その時、話題に困ったから、僕が「今日AFSのポスター見てさ、行きたいと思ったんだよね~」って言ったら、お父さんがすごいノリノリで(笑)「いいじゃん!行けばいいじゃん!」って言われて。
―その時点では、Sよりむしろお父さんの方が乗り気だったのか(笑)
そうそう。僕はその時、「え、ホントに行くの!?」って若干しり込みしてたんだけど、とり合えず、テストを受けてみることにした。
―テストって何がある?
英語の試験と面接があった。
アメリカに行くには67点満点中45点以上を取る必要があるんだけど、たしか47点とギリギリの点数を取ったね。
―倍率は分かってるもの?
アメリカとオーストラリアは結構高くて、5、6倍だったはず。
ホストファミリーの数が少ないことと、人気留学先という理由で倍率が高くなる。
―正直、英語の点数ギリギリだったのに、よく受かったねって思っちゃうけど(笑)
ほんとにそうなんだよね(笑)
ただ、僕は面接で結構いい点数をもらってたらしくて、そこで稼いだ。
―何を聞かれたの?
英語を交えながら、「アメリカでどういうことがしたいんですか?」「どういうことに興味があるんですか?」とかだった気がする。
こう言うと嫌味に聞こえるだろうけど、僕、人に対しての第一印象いいからさ(笑)
―そこは大いに同意(笑)
だから、面接官がすごく感激してて、帰り際に「あなたの面接は満点なので、あとはテストだけ無事にできることだけ願ってます」ってことを言われた。
―自分の第一印象がいいことはいつから気づいてた?
小学校の時から優等生的なポジションでいたから、先生に対しても「良い生徒なんだろうな~」ってことは自負してた(笑)
―合格してからはどういう準備をしたの?
渡航する1年前の高1の夏には試験結果が出てたから、準備期間は1年あったよ。
AFSのオリエンテーションが1回あったから、既に帰国した先輩方からマインドセットを聞いて、心の準備はしてた。
もちろん英語も自分で勉強したんだけど、それは明確な目標があったっていうより、怖いからやってたくらいで・・・。
―怖いっていうのは何が?
言語が通じない、文化も違う世界で、自分がどう見られるかをコントロールできないのが怖かった。
「英語できないやつ」とか、できないやつとみなされることを一番恐れてたかも。ずっと”良い子”で生きてきたから。大きな挫折を経験したわけでもなかったし。
―さて、いよいよアメリカへ渡航するわけだけど、まず率直にどうだった?
「やべぇ所に来ちゃったな」って思ったわ(笑)
僕のホストファミリーはオハイオ州に住んでるんだけど、オハイオ州に行く前に、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港の周辺で1泊したんだよね。
そのホテルには、AFSのプログラムに参加する学生が他にも世界中から集まってたんだけど・・・。
そのなかにブラジル人の学生の集団がいて、ホテルの広い所で持参のサッカーボールで遊んでたんだよね。
僕も相手も英語は分からないけど、そのブラジル人に「ナガト~モ~」とか言われて(笑)
同室になった子とも英語での会話はできなかったんだよね。
ただ、皆楽しそうにしているし、いい人そうなのは伝わってきたから、その時の僕は希望に満ち溢れてた。
―ってことは、その後希望は薄れていったの?
翌日、オハイオに着いてからは結構不安だったな。
ホストファミリーが空港で僕を出迎えてくれた時は「ウェルカム~!」&ハグっていうザ・アメリカンな演出をしてくれて、すっごく嬉しかったんだけど、その後日常に戻った瞬間一瞬で困ったね。
まず空港から家に向かう車の中で、何か聞かれるんだけど、何を言っているかよく分からないし、何も答えられなくて。アメリカでの生活は、そんな始まりだった。
感じなかった!?人種差別
―学校に行ってからは、アジア人、日本人として、嫌な思いをしたことはある?
まず最初に言っておきたいんだけど、僕はアメリカでの交換留学1年間を通して、アジア人だからという文脈で嫌な思いをしたことはほとんどない。
大きな理由は2つだと思う。
1つは、僕が通ってた学校の、留学生を受け入れる体制が整っていたからだと考えてる。
実は、僕を受け入れてくれたホストファミリーは、僕が行った時には、ホストファミリーをやり始めてもう11年目だったんだよね。
そのホストファミリーからその高校に、毎年必ず1人は留学生が行っているから、学校や学生側が留学生に慣れていたんだと思う。
もう1つは、白人が大多数の高校だったけど、黒人もアジア人も一応いたから、あからさまに嫌な思いをすることがなかったのかな。
ただ、住む世界は違ったよね。
僕のような留学生に積極的に寄ってこようとする人は、あまりいなかったかな。
いい意味でも悪い意味でも、他人事というか。
だから、最初、友だちを作るのには苦労したけど、反対に別にいじめとかはなかったし。
ただ、「これがアジア人に対する偏見か~」「アジア人ってこうやって見られてるのか~」って思ったことはあった。
ランチ友だちが、目尻を指で引っ張って、「アジア人ってこうだよね~(目が細い、無いよねという意味)」って、僕の目の前で言ってきたことがあったんだよね。
僕は自分が笑った時に特に目が細くなるタイプなの知ってたし、その時、別に嫌な気持ちとかではなく、「まあ、そうだよね」って思ってた。
でもあとから「あれは差別や偏見だったのかもしれない」とふと思って、「なるほど、こういうことね」って腑に落ちたのは覚えてる。
―あとからってのは?
そのジェスチャーをされたのと同じ日に、「あの行為って、確かに、アジア人をステレオタイプに当てはめてるような文脈があるのかな」って。
その行為をやった彼には悪気はなかったのだと認識はしているけど、「アジア人に対する偏見っていうのはこういうことか」ってことを学んだ。
―あえて言い方を良くすると、Sは差別的な文脈を知らなかったからこそ、嫌な思いをしなかった、と言うことができるよね。知らぬが仏じゃないけどさ。
まぁ高校生だったしね。
―最近のBlack Lives Matter(BLM)運動等の現状を見聞きする中、正直、またアメリカに行きたいなって思う?
BLMどうこう関係なく、最近はアメリカに行きたいと思うことが少なくなっているな。
「1度英語をある程度習得したからもう暫くは行かなくていいかな~」みたいにしか思ってないんだけど・・・。
ただ、今は、高校生だった時の自分と同じ気持ちで「行きたいな」とは思えていないし、アメリカから帰ってきてもう6年経っているから、現地でしか感じられない雰囲気が全く分からない。
―逆にアジア人、日本人としていい思いをしたことはあった?
日本人としていい思いをした話になるけど、日本の数学はアメリカより全然進んでるからさ、マジで天才扱いされて(笑)
―それよく聞くんだけど、実際、どのくらいのレベルで天才扱いされるの?
前提として、僕がアメリカで行ってた高校は、社会階級的にはたぶん中の下ぐらい。だから、学力的には、勉強がすべてって人は少なかった。
その学校は中高合わせて400人くらいしかいない小さな学校だったんだけど、僕は、10人くらいしかいないトップ数学クラスに入ったんだよね。
でも、そのクラスでも、積分の簡単なやつしかしてなくて。
Xの二乗を微分しましょうとか、Xの二乗を積分しましょうとか。
日本での積分ってより難しくなると、回した立体の体積を求めなさい、みたいな問題が出てくるんだけど、そういう発展問題は一切やってなかったな。
その学校の最高レベルの数学のクラスでも、僕が日本で高2の夏までにやってた内容からはかなり遅れている感じだった(アメリカではそれが普通なのかもしれないけどね)。
すごく面白かったのは、因数分解の話なんだけどね。
うちの高校では体育の時間ってほぼ雑談の時間だったから、その時間に因数分解を解いてる生徒がいて、体育の先生がそれを手伝ってたんだよね。
―待って、まずそれがめちゃくちゃじゃん(笑)
まあそうなんだけど(笑)
先生も解けなかったらしく、「アジア人だから賢いだろう」っていう偏見から、僕が呼ばれてさ。
因数分解ってまあ発想じゃん?だから、少し考えて、サーッて解いたら、マジ天才扱いされたよ。
「お前どうやったら分かるの!?」って言われて、それはそれは、いい気持ちになったよね(笑)
帰国後、何かの間違いで東大に受かる。
―Sは卒業年をずらさず卒業し、浪人せず大学に入ったわけだけど、同級生との1年分の遅れは不安じゃなかった?
帰って来てすぐは、まだ、僕の思考はアメリカナイズされたままで、「なんとかなるでしょ~」って思ってたんだけど、帰ってきてから初めて受けた数学のテストで、100中3点しか取れなくて。
逆にどやって3点取ったのか覚えてない(笑)
その時、「マジでヤバイ」と思った。
あと、世界史は、アメリカ行く前には、ローマ史を習ってたんだけど、日本帰ってきたら、第二次世界大戦やってんの。1000年飛んでんだよね(笑)
だから「この差は絶望的だ」って、めちゃくちゃ焦った。
―高3年の夏に帰ってきたってことは、当然、大学受験まで時間がないわけじゃん?そこはどうやって挽回したの?
今振り返ると、「あの時の自分は上手くやってないな」って思うんだけど、とりあえず挽回できるように計画を立てて、1日の行動に落とし込んでた。
自分が勉強したいのは物理系ってことは分かってたから、大学のホームページを見たりして、そういうことが勉強できる所に目星をつけてた。
結局第一志望を阪大にしたのかな。
こう聞くと、一見上手くいってるように聞こえるよね?
でも、僕は計画を立てて、実行するのが苦手なんだ。
だいたい、1年分の遅れを取り戻す、且つ受験に備えるという計画が無茶だったんだけど、僕はアメリカにいた時、全く勉強をしていなかったから焦ったよ。
とりあえず数学と世界史に力を入れたんだけど、センター試験の数IIBで51点を取ったことからも分かるように、結局、完全にはキャッチアップできてないまま大学に入ったよね。
―と言いつつ、天下の東大に入ってるわけだけど・・・。
それは推薦だからね。
―でも、そこを受けようって思うにも勇気がいるよね?
勇気っていうよりも、当時は藁にもすがる思いだったんだよね(笑)
東大の推薦入試は僕が受験する年から始まるし、一般とは全く違う審査基準だから、何かの間違いで受かるかもしれないと思って。
―まだアメリカナイズが残ってるね(笑)
試験内容は、書類審査、センター試験で8割以上、面接で、僕は人当りは悪くないから、面接なら良い印象になるだろうしって思って(笑)
正直受かるとは思ってなかったけどね。
―数IIBで51点取りながらも、センター試験総得点では8割あったってことか。
まあそうだね。英語と国語が伸びたから。
―なんで国語!?
面白いよね。
アメリカに行って英語力以外に着いた力って文脈を読み取る力だと思うんだよね。
英語では誰かが言っていることを完璧に聞き取れることはないから、キーワードを掴んで、「この人はこういうことを言いたいんだ」って自分で文脈構成を立ててたんだ。
その力って現代文でめちゃくちゃ活きるんだよね。
だから「作者が言いたいのは結局こういうことだよね」ってまとめる力に繋がって、結果、国語の成績が大きく伸びた。
―書類審査と面接はどんな感じ?
書類審査と面接は要するに、「君が推薦に受かりたり得る人物である理由を教えてください」ってことだよね。
入りたかった工学部の要件は3つ。国際性、論理性、創造力(クリエイティビティ)。
国際性に関しては、留学に行ったことをアピールして、論理性については、日本の次世代リーダー要成熟っていう合宿で、高校生国会みたいなことをしていたから、その時、政策を提言するのに、論理力を使ったって話した。
最後の創造力に関しては半分ネタなんだけど(笑)
僕のおじいちゃんが布団圧縮機や食パンを挟むとサンドイッチになる機械の特許を取った発明家なのね。
だから、「おじいちゃんは発明品を世に出してます。そんなおじいちゃんの仕事を横で見てきたので発明できます!」って言って。
―Sはその時までに何か発明したことあったの?
ないよ(笑)
―よく天下の東大様に取ってもらえたね。絶対面接の印象だけで80%分の得点取ってるでしょ(笑)
ホントだよ。そんなやつ、僕が審査する側だったら落とすと思うけど、なぜか受かった(笑)
人生で初めて経験した挫折
―東大に入れたはいいけど、その後大変だったんだよね?
そう。今振り返ると、入学前から既に、ヤバくなりそうな予兆はあった。
まず、数IIBの51点は積分ができていなかったことが原因で、入学前から「僕は数学が苦手なんだ」って数学への苦手意識を自分で自分に植え付けていて、大学1年生の時から、微分積分学の授業は全く分からないわけ。
そもそも大学の授業は分かるように作られてないから、そこまで気負う必要は無かったんだろうけど、周りの友だちが分かっている様子とか、教授の板書のスピードの速さを見て、「僕ってできないやつだな」とかネガティブな考えがどんどん出てきてさ。
自分で自分に「できないやつ」っていうレッテル貼りをし出したってことは、ある種のパニック状態なんだよね。
―そうだね。その思考はまずいね。
そういう思考でいると、目の前の数学の問題を解くことに集中すればいいのに、できなくなるんだよね。
数学の問題を見た瞬間に「自分はできないやつだ」って思ってしまって、数学の問題を解けなくなって、加速度的に数学に対してアレルギーが出来上がっちゃったのかな。
一方で、大学入学後に始めた演劇は楽しかったから、無限に自分の時間とエネルギーを投資できた。
演劇部は2年生で引退して、3年生から専門課程が始まるタイミングで、「演劇終わったし、もっとちゃんと勉強しよう」って思ったのね。
だけど、専門課程が始まった途端、僕にとっては勉強が一気に難しくなってさ・・・。
あの時起こったことは、まだ自分の中で完全に整理しきれたわけではないんだけど、朝起きられなくなってきて、生活リズムが乱れ始め、とうとう本が読めなくなっちゃって。
―活字がダメになったってこと?
そうそう、教室に行っても汗をずっとだらだらとかいてる、みたいな。
しまいには、3年生の6月くらいに、教室に入るだけで、息が上がって呼吸がしにくい状態になってしまった。
僕は、それまで、メンタルヘルスの問題は他人事に感じていたふしがあったけど、とても勉強できる精神状態ではなくなっていたから、精神科に行って、休学を決めた。
たぶんパニック障害の入り口だったと思うけど、あまりに辛くて、息ができなくて、涙が出てきたから、安田講堂の目の前の広場で寝っ転がった時、初めて、「精神科行こう」って思ったんだ。
それまでは、「僕は普通のはずだ。できるはずだ」って思ってたけど、自分が辛いって感じてた状況を初めて認めてあげることができた。
休学生活で得たもの
―精神状態が相当不安定になったにも関わらず、休学中にもちゃっかりインターンしてるよね(笑)気持ちはどうやって切り替えたの?
切り替えたというよりも、「僕にはまだ価値がある」って信じたかったから、勉強以外で自分にできることを見つけようとした結果、インターンに辿り着いたと言った方が正しいかも。
演劇を続けていたのも、勉強以外で自分の力が発揮できることを求めた結果だと思う。
ある種逃げてたんだよね。
「逃げるなら全力で逃げてやろう」って思った結果が、演劇やインターン先でも勉強してたワークショップかな。
―ワークショップは色んな種類があると思うけど、どんなことをしていたの?
僕がやっていたのは、他の人と一緒に、自由に、何かについて考えるための手段としてのワークショップ。
例えば、開催したワークショップの1例を紹介すると、「休学はどういうものか」を、集まった皆で話し合ってもらうってことをした。
普通に話して、お互いの言っていることを聞いているだけだと、既にある考えしか浮かんでこないだろうから、
10分間、手を使ってレゴを自由に動かしながら、「人生における休学とは何か」を頭において考えてもらった。
その時大事なのは、何か作ろうと思ってレゴを動かすのではないってこと。
「休学とは何か」というテーマを頭に置きつつ、手の心地よいようにレゴを動かしてもらうと、意図してなくても人それぞれでできてくるレゴの形が違ってくるんだよね。
地面に這いつくばるようなレゴの積み方をしている人もいれば、高く積む人もいたし、不安定な感じで伸ばす人もいるし。
レゴの形からも結構話が盛り上がるんだよね。「なんでそこそうなってるの~?」「そこは君にとって大事なの?」とか。
このワークショップでは、レゴとの相互作用から、どうすればお互いの思っている休学感が出てきて、混ざり合うか、僕はその話のきっかけ作りみたいなことをしてた。
―じゃあファシリーテーター(司会進行役)みたいな立ち位置か。
集まるのは、僕の友だちとかその友だちなんだけど、「こういうワークをすると、こういう話になるかな」とか「こういう聞き方をするとこうなるよね」ってことを考えながら、ファシリテーターをしてた。
―インターンとワークショップには何か繋がりがあったの?
インターン先の会社にはワークショップをもっと勉強したくて入ったんだ。
僕がやっていたようなワークショップをコンサルティング的に活用して、ビジネスの領域で組織改善をしている会社に入れてもらった。
ただ、僕は、ワークショップを直接手伝う仕事をしていたわけではなくて、その会社が、個人向けに行っているオンラインコミュニティのイベントの運営をしてた。
―ワークショップはSにとって、かなりの魅力があるってことかな?
ワークショップを勉強したり、自分で開催することを通して、自分のことをじっくり考えなおすきっかけになったんだ。
「僕は、普段、人とどう接してるんだっけ?」とか「人と接する時、すごく不安に思うことがあるけど、そんな不安にならなくていいんだよな~」って思ったりするようになったね。
あと、休学中のインターン先の会社の上司が、僕に仕事を割り振ってくれてたのだけど、僕は高校3年生の時から、計画を立てて実行することに大きな苦手意識を持っていて、インターンの仕事も最初は、大概、締め切りに間に合わなかったんだよね。
でもその都度、上司が僕に向き合って、僕が納得するまで話に付き合ってくれた。
例えば、上司は「なんでできないんだろうね~、やっちゃえばいいじゃん」って言うんだけど、僕は「でも怖くないですか?」って。すると上司は「何が怖いの?」って聞いてくれた。
そういった上司とのコミュニュケーションを通して、「計画的に物事を進めるのってこういうことなんだ」とか「社会人として仕事をするってこういうことなのか」って、自分の怠惰なところを全否定せずに、自分と向き合っていくことの意味が初めて分かったんだよね。
休学中、僕に本当に必要だったのは、自分と向き合う時間や考え方だった。
―そこで身に着けた自分との向き合い方は、今でも役に立ってるよね?
それが無いと、今の僕はここにいないと思う。
それまでの僕は、何かできないことがあった時に、自分を傷つけるような思考をしがちだった。まぁ、自分を痛めつけるような思考が大好きだったしさ。
―その思考はね、自分の調子が良い時は上手く働くと思うよ。
もしも話をしても仕方がないのだけど、インターンであの上司と出会っていなくて、そのままの自分で復学したり、社会人になっていたら、僕はいつか、復帰できないくらい潰れていたと思う。
―休学期間中にしたこと、出会った人は、Sの人生の中でかなり大事だったみたいだね。
今はもう復学したんだけど、結構キツキツなスケジュールで授業を取ることがあるんだよね。
やっぱりまだ怖いわけよ。
「また、できない自分に直面したらどうしよう」とか「計画的にできない自分をまた嫌いになりそう」と考えてしまうことはある。
でも、その度に、「起こってしまったことは仕方ない。それを認めた上でもう一度目標設定しよう」と考え直すことができてる。
ただひたすらに頑張るのではなくて、僕なりの頑張り方を知ったのだと思う。
そういうことを学んだ1年の休学期間だったと思うよ。
いよいよ就活かぁ
―今就活を少しずつ始めてると思うけど、Sの(わが道を貫く)タイプ的に就活をすることが意外だった。率直に聞くけど、なんで?
理由は大きく2つ。
1つは、今、友だちとサービス開発をしようとしているんだけど、僕はビジネスの知識が浅いことを実感したから。
もう1つは、今の僕は、できない自分を認めて受け入れることができるから。
以前は、組織に所属して、画一的な指標の上に乗せられることがすごく嫌だった。
それが嫌な理由は、できない自分を突き付けられるから、だったんだけど、今は「その指標の上でできなかったことを自分の全てだと思う必要はない」ことが分かっていて、対処法も知っているから、就活に向き合うことがそこまで怖くない。
今は、たとえ就活で企業に落とされたとしても、「自分はその企業に向いていなかったんだろうし、できなかったところが沢山あったんだろうな。じゃあ改善するために、自分は何ができるんだろう」ってことを考えられるようになってる。
―起業と就職の両立をするつもり?それともスキルが身に着いたら辞めるかも?
僕は、将来もずっと、楽しい仲間と楽しいことをしていきたいと思ってる。
起業はそれを達成するための一手段でしかないし、会社の中でもできることはあるよね。
だから、就職とか起業とか、手段にはこだわってないな。
ただ、一緒に面白がって、何かをできる環境があることを求めてる。
―今後やってみたいこと、考えてることがあったら、是非教えてほしい!
直近でやってみたいことは、今、友だちとやってるサービスを世に出すこと。
そのサービスを通して描く世界観が、僕は結構素敵だと思ってるんだ。
まだビジネスについては全然分かっていないけど、ある種、試し打ちみたいな感じで、自分のビジネス力を試してみたい。
僕とアメリカと日本とみんな
―高校交換留学でアメリカへ行った時から今までで、自分の中で繋がっているものはある?
正直、自分の経歴の中で、アメリカと自分がパッとすぐには繋がらないな。
アメリカで過ごした時期は、確実に、自分に大きな影響を与えたはずだけど、それが何かを言語化できるまでには至っていないかも。
―まだ点と点の段階かな。
ただ、アメリカに行くにあたって、英語力の向上以外に、「異文化交流とはどういうことか。違いはどうやって生まれているのか」も自分の中のテーマとして持っていたのだけど、アメリカで実際暮らしてみて、意外で、大きな気づきがあった。
当然、日本とアメリカでは、笑いたくなるほど全然文化が違う場面もあったんだけど、「アメリカ人も人間だよ」って当たり前のことに気づいた。
―というと?
異文化交流って聞いた途端、ふつう国ごとの違いが頭に思い浮かぶし、それは分かりやすいから仕方ないのかもしれないけど、「結局、人間って一人ひとりめちゃくちゃ違うよね」ってことを思った。
僕はアメリカに行けば、異文化を感じるだろうと期待していたんだけど、異文化はもっと身近なところにあるんだよね。
日本にいたって、一人ひとり全く別の人間なのに、「国ごとの違いだよね~」って結論に至って見えなくなってしまうものがある。
―確かに。今、私(筆者)とSが、今話していること自体、異文化交流だよね。
異文化をまとってるってことを、もっと一人ひとりの単位に落とし込んで、自分の認識を見直したくなった。
だからこそ僕は、ワークショップを通して、人と人との関わりや、組織に関することに携わっている。
この、人と人との関係を考えることは異文化交流だと思うから。
全く違う経験や、バックグラウンドをまとった人たちが考えを共有することは、異文化交流だと言えるはずだよ。
国という大きなスケールではなくて、もっと小さなスケールで異文化交流を考えないと、社会に溢れている様々な問題を再生産してしまうと思ったね。
国、人種、性別に固執すると、特定の分け方にしかならないけど、極端な話、「白い服が好きか」とかの違いもありうるわけよ。
人間は色んな分け方ができてしまうからこそ、分け方に固執するのではなくて、「そもそも一人ひとりって違うよね」ってところに戻らないと思って、一回外国への興味は薄れた。
あ、今やっと、アメリカと今の自分が繋がった気がする!
―良かった!点と点を繋げる手助けができて。
僕は、アメリカに異文化をすごく期待していたんだけど、行ってみたら「たいして無いじゃん」って、若干絶望したんだよね。
―でもやっぱり行かないと、異文化交流がとっても身近なことに気付かなかったね。
結局行かなかったら、僕はいつまでたってもアメリカに夢を抱いていただろうし、「日本もアメリカみたいになるべきだ」みたいなことを言ってたかもしれない。
でも、そもそもの違いを認めて、それをどうするか、みたいな話はアメリカに行かなかった自分ではできなかったと思う。
―陳腐に聞こえるのが嫌だけど「深イイ~」ボタンを押したくなる話だよ(笑)
異文化って特別なものだと思ってたけど、その自分の勝手な夢物語がアメリカで消えたのは、自分の人生にとって大きな収穫だったな。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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